答えられるかどうかは保証しない。
答えられるかどうかは保証しない
引用元: ・言語学と哲学をちょっとだけ勉強したけどなんか質問ある?
どっちもSVO型の文法だから似てるということ?
うーんわからん。
ただ、SVO型は世界で一番か二番かに多いタイプだから被るのはそれほど不思議じゃないと思う
SVO型とは、文を作るときに、主語 (Subject) – 動詞 (Verb) – 目的語 (Object) の語順をとる言語のこと。
自然な能動態の表現において、次のような三つの構成素で文を作る言語類型を言う。例:「サム 食べた オレンジ」(サムはオレンジを食べた)
神が担保してくれるのが中世風
どこにもないから自分で決めなさいと答えるのが近代流
現代はどうだろう。
お前の意図とは関係なく価値はあらかじめ定まっていて、しかもどんどん変わっていくと答えるのがそれっぽいか
あらゆる物事を研究する学問だと思います
主要な分野としては形而上学(これは最近よくわからない)、美学、論理学、倫理学などが挙げられる
あんまり細かいところと突っ込まれても答えられないしそれでいいのかもだけど
まあ、ちょっとだけだからね
語れよといわれても何を語れと
存在論の歴史なんか語っても需要あるか?どうせ偏った語り方にしかならないし語れるかどうかも微妙だし
社会思想方面が政治哲学って認識でいいのかな?
基本的には個々の人間と共同体との正統性を確保した上で、そうした社会の在り方を考えるのがそれだと思う
善の基礎づけとそれに基づく社会や人類の義務をどう考えるかということ。
というかこれだと公共哲学だな
政治哲学はマキャベリみたいなどうやったら政治運営がうまくいくかみたいなのを考えるかだと思われ
マキャベリズムってなあに?
マキャヴェリズムは、ルネサンス期の1513-14年に『君主論』を書いたマキャヴェッリに由来する言葉で、目的のためには手段を選ばない、目的は手段を正当化するといった意味で使われる。
その一方、マキャヴェッリの言葉を断片的に捉えて解釈し、あるいは都合のよいように解釈した結果だと主張する者もいる。
君知っててとぼけてるだろ
これは難しい
中世からずっと続いている難題
古くは神が、今は科学があらゆることはあらかじめ決まっているとする決定論の根拠となっているけど、そうだとするなら人間には一切自由がないことになる
反論するのが難しいけど、それを認めてしまうと犯罪者に刑罰を与えることもできなくなる
言語学は哲学方面からのアプローチだからそんなに
哲学は通説レベルなら多分どこでも。分析だけはちょい辛い
フェルディナン・ド・ソシュールは、スイスの言語学者、言語哲学者。「近代言語学の父」といわれてる。
コードの研究とか意味の生成過程の研究とか?
形式系ならチョムスキーが圧倒的な影響を持ってるのは言うまでもない
エイヴラム・ノーム・チョムスキーは、アメリカ合衆国の哲学者、言語哲学者、言語学者、社会哲学者、論理学者。
彼は50年以上在籍するマサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 兼名誉教授である。
ポストモダンとは、現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。
解釈の限界性を放棄して展開するからね
wikiで見た限りだとホーリズムとはちょっと違うかな
人間は観察行為から理論を導くのでは無く、まず理論があってそれによって観察するというお話
「理論の検証や反証の基盤となる純粋無垢の観察事実は存在しない」となる
じゃあ人間にとって最初の理論って何かと言うと、言語かなとか考えてたりしてるわ
ホーリズムとは、ある系(システム)全体は、それの部分の算術的総和以上のものである、とする考えのことである。あるいは、全体を部分や要素に還元することはできない、とする立場である。
すなわち、部分部分をバラバラに理解していても系全体の振る舞いを理解できるものではない、という事実を指摘する考え方である。部分や要素の理解だけでシステム全体が理解できたと信じてしまう還元主義と対立する。全体論と訳すこともある。
デュエム-クワイン・テーゼって言った方が正しかったね
多分あなたが言っているのは、理論負荷性そのものではなく、認識の制約性から導かれる体験の記号性について述べているのだと思うけど
最初の理論は言語ではなく人間の認識システムそのものだと思うよ
最初の理論が言語なら言語獲得以前の体験は無垢の体験ということになるけれど、実際には何を処理し、何を処理しないかというのは脳と感覚器によって定められていて、それにしたがって世界は展開される
だからもし最初の理論というものを人間に定義するなら、世界の観察機械たるこの身体自体が最初の理論ということになるんじゃないかな
デュエム-クワイン・テーゼは、ピエール・デュエムとウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによって指摘された科学哲学における決定不全性に関する命題。
A.グリュンバウムが命名した。ただし、ふたりの主張するテーゼの内容には差があり、デュエムのテーゼとクワインのテーゼを区別する研究者、論者もいる。
言語習得以前の「観察」は恐らく我々が日常的に行っている物とは異なるものだろうとは思う
身体自体が最初の理論、という説はちょっと疑問を持つわ。
無垢なる観察でも無いと思う
観察という定義にあてはまらない何かである可能性もある
ごめん。書き方が悪かったかな
身体が無垢なる観察ということではなく、身体による認識制約性が全てに先んじて発生するから無垢なる観察も、無垢なる体験もありえないということを書きたかった
言語分節についてはソシュールも書きまくってるし、それ以前とそれ以後についてはラカンがこれ以上ないくらい研究してるからその辺りを読めばいいと思う(既読かもだけど)
ジャック=マリー=エミール・ラカンは、フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。
ホーリズムであってる?それとも別になにかある?
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタインは、オーストリアのウィーンに生まれ主にイギリスのケンブリッジ大学で活躍した哲学者である。
著作活動は母語のドイツ語で行った。後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。
前期も後期もいいよね
一生涯通して独創性を失わなかったのはすごいと思う
個別の言語研究に関してはさっぱりたからなんとも言えない
孤立語らしいということは聞きかじっているけどそれ以上はなんとも
それとも浅く広く勉強したって感じ?
言語学というか正確には言語哲学かも
意味論とか統語論あたりだと思う
記号論から入ってその関連から学んだから言語学かどうかも微妙かも
どこ大卒?良かったら教えて
後、フロマートカの『無神論者のための福音』について教えて下さい
ヨセフ・ルクル・フロマートカは、チェコのプロテスタント神学
ニッコマ在学
フロマートカさんは知らないのでなにも言えない
この質問ある?に関係ある?何か
「才能のない者は、考えもせずに何かが起こることを期待する。彼らは自分の失敗を努力不足よりも、ひらめきや能力のなさ、不運のせいにする」(アメリカの社会哲学者、エリック・ホッファーの言葉)
— ダイエット深いい話 (@hurleedrain)2015年5月6日 12:00:27
「お前は見られている」が宗教。 「見られていなくても」が道徳。 「どう見ているか」が哲学。 「見えているものは何か」が科学。 「見えるようにする」のが数学。 「見ることが出来たら」が文学。 「見えている事にする」のが統計学。 「見られると興奮する」のが変態。
— 面白いネタbot (@wwwwbot) 2016年3月30日
何のために生まれて(哲学の起こり)何をして喜ぶ?(幸福論)分からないまま終わる?(懐疑主義)そんなのは嫌だ!(啓蒙思想)忘れないで夢を(エピクロス主義)こぼさないで涙(博愛主義)だから君は行くんだどこまでも(ポスト・モダン) stalemateA
— おもしろツイート (@897gjy3dosib)2015年5月4日 8:37:36
失恋した女の子に
哲学者はこう言った。「君は自分を愛してくれない人を
失ったにすぎない。しかし彼は自分を愛してくれる人を失ったのだ。」— 感動する話 (@kanndo_hanasi) 2016年3月24日
twitterは発言の権利を持てる場なのに、自分について語ればナルシストだと謗られ、他人について語れば傲慢だと嫌われ、政治や科学について語ればにわかだと嘲られ、哲学について語れば否定され、恋愛について語れば疎まれたら結局何について話せばいいんですか!天気ですか!今日は寒いですね!
— 笑ったら笑ったで。 (@croozexh)2015年5月3日 4:12:27
記憶喪失になった哲学者「ここはどこ?私とは何…?」
— タケ (@tooiikara)2015年5月2日 10:13:17
管理人の独り言的な質問
哲学的なことを考えたことありますか?